新潟の総鎮守 白山神社

新潟の総鎮守 はくさんさま

「おはらいといえば、新潟でははくさんさま」と言われるように、
毎年、数多くの方が、おはらいを受けにおまいりに訪れます。

白山さまは、家内安全、商売繁昌、交通安全、厄除、建築、工事安全、
海上安全、子宝、安産、縁結びの神様として霊験あらたかと言われております。

新潟総鎮守として、新潟市民はもとより多くの方々に崇敬され現在に至っております。

白山神社が「新潟の総鎮守」と呼ばれるのはなぜ?

総鎮守とは、国または土地の全体をやすらかに守る神や総社のことをいいます。
「新潟総鎮守」とは、新潟の総(すべ)てを鎮(しず)め守(まも)る神様、神社という意味になります。
白山神社の建立は、延喜(901~)とも寛治(1087~)ともいわれており、
以後、いくつもの時代を新潟とともに歩み、新潟の発展や歴史、人々の暮らしに深く関わって参りました。
その歩みを振り返ると、白山神社が「新潟の総鎮守」と呼ばれる理由をご理解戴けることでしょう。

白山神社の神様と歴史を動画でチェック

アニメで見る白山神社の神様

アニメで見る白山神社の歴史

以下よりご紹介する内容をお子さんでもわかりやすように、動画で3分にまとめました。
白山神社のことを知れば、新潟の歴史や文化、その成り立ちがよくわかります。

新潟のはじまりの地に鎮座する白山神社

白山神社のある場所は、かつて、信濃川の中州にある白山島でした。辺りは信濃川や阿賀野川が運ぶ土砂により地形の変化が大きく、江戸時代まで白山神社は、信濃川から日本海へ出る新潟湊の先端に位置していました。戦国時代から江戸時代にかけての新潟では、白山島と白山城の中でしか商売が許されておらず、「白山ヶ島は田畑はなし、商人多し」と書かれています。貨幣の価値があった年貢米は白山神社境内の蔵に納められていました。
江戸時代の初めになると、新潟湊は、新潟町を所有する長岡藩にとって重要な物流拠点となり、年貢米の積み出しはもとより、藩内で生産された名産品や海産物の運び出しには欠かせませんでした。ところが、土砂が堆積して湊が浅くなり、回船が入れなくなったため、明暦元年(1655)、新潟町は白山島・寄居島へ移転をします。
新しい町並みは上(南)が白山神社境内地、下(北)が州崎町(本町12番地)まで。東西は上大川前通から西堀通りまで。白山神社は新潟町の起点ともなり、それは現在の住所(新潟市中央区一番堀通1-1)にも見て取れます。
「一番堀」という住所は、神社の前を通っていた一番堀(白山堀)の名前に由来しています。ちなみに、古町、本町という名称は江戸時代から、東堀、西堀、一番堀通町という名称は明治維新の後、町名改正から使われるようになったとされています。

古新潟之絵図(移転前)

明暦元年(1655)頃/現在の古町地区につながる新潟町は、明暦年間に古新潟から白山島・寄居島へ移転、町割りされたと考えられています。

新潟町絵図(移転後)

文政6年(1823)頃/信濃川の流れが変わり、町が川岸から遠のき、湊として機能しなくなったため、場所を移して堀と通りで区画された新潟町が再構築されました。

PICK UP 新潟町の核を成す白山神社

信濃川に沿って造られた新潟町。7つに区分けされた各組には役人が配置され、町会所は戸籍管理や他町村との交渉などの行政事務が執られていました。柾屋小路(現柾谷小路)の西堀には長岡藩の町奉行所があり、まちの南端には白山神社が。これらが新潟町の核となっていたのでした。明暦元年(1655)には白山神社から日和山までの街並みの骨格ができたとされ、現在の古町通や本町通が誕生し町屋が建てられました。白山神社から1番町、2番町と町割りがされたとも言われます。

町人は職業で住む場所が決められ、たとえば舟で材木を輸送する木材商人は大川前通の川沿いといった具合に、町割りは計画的なものでした。

白山神社に米蔵があったころの絵図

享保期(1710年代ころ)には長さ18間(約32.72メートル)、横4間半(約8.18メートル)の蔵が16棟あり、年貢米などが収められていました。

戦国・江戸の武将と白山神社

白山城の跡地

白山城の跡地

幻の新潟城

上杉謙信の急逝により、景勝と景虎の2人の養子が上杉家の家督を争った御館の乱。 新発田長敦、重家は上杉景勝方につき活躍しましたが、大した恩賞が与えられず不満が募っていきました。重家が家督を相続して新発田城主となると、天正9年(1581)6月、上杉に対して反旗を翻しました(新発田重家の乱)。
新発田軍は南下して白山島に白山城(新潟城)を築き、湊の利権と支配権を手に入れ、新潟の湊に入る船が景勝に納める税金を奪うことに成功。日本海航路の重要拠点である白山島、新潟湊を手にいれ、経済的にも軍事的にも優位に立つことになりました。そして、この白山城は、白山大神を場内にまつっていたとの記録が文献に残されています。
天正10年には上杉景勝が、天正12年には直江兼続も出陣して新発田軍と戦うも戦果はなく、一進一退の戦いが続きましたが、天正13年末に沼垂津、新潟津を上杉軍が奪取しました。

さらに天正14年に景勝と秀吉が手を結び形勢が逆転。上杉景勝、直江兼続らは、天正15年(1587)夏、秀吉の支援を受け、新発田城攻略に向けて大軍を発し、新発田方の城を一つ一つ攻略。最後に残った新発田城も陥落し、7年に及んだ新発田重家の乱は終わり、新潟は上杉の下にひとつとなりました。ここから、五大老の一人となった上杉景勝と、天地人で知られる直江兼続の大いなる発展の歴史が始まりました。

このように、戦国時代は上杉家が、江戸時代には堀直寄・牧野忠成が。新潟湊の支配とともに物資の輸送で財力をたくわえながら、新潟町発展の原動力となっていきました。このような町や湊の発展を見守り続け、守り神として篤い信仰を集めたのが新潟総鎮守・白山神社なのです。

PICK UP 佐渡金山の物流拠点となった新潟湊の守護神・白山神社

文禄4年(1595)には、上杉景勝が豊臣秀吉により越後・佐渡の金銀山の支配を任せられています。江戸時代になると、金山のあった佐渡は幕府直轄地の天領となり、佐渡奉行所が置かれるなど重視され、佐渡金山からの金は新潟湊を経由して江戸へ運ばれました。16世紀後半に山師3人により開山された佐渡金山と、重要な物流拠点だった新潟湊は、豊臣の世から徳川の江戸幕府300年を支えた財政に重要な役割を果たしていたと言えるでしょう。
そんな重要港湾としてにぎわう新潟町で、白山神社は湊の守護神としてあがめられていました。

日本最大の金銀山として約400年もの間、資源が開発された佐渡金山。現在は、世界遺産候補として、本登録の準備が進んでいます。

江戸時代の交易を支えた北前船と白山神社

17世紀後半、幕府の年貢米の輸送をするために、日本海の航路・寄港地が整備され、商人の船による交易が盛んになります。新潟湊にも幕府や近隣の藩の年貢米を積んだ回米船、商人の物資を積んだ回船が往来しました。大阪(大坂)と北海道(蝦夷地)を日本海まわりで往復しながら、各寄港地で積荷を売り、また、新たに品物を仕入れたりしながら商売をしました。北国からの物資を運んでくることから、こうした回船は、大阪など関西では「北前船」と呼ばれていました。そして新潟も「北前船」の寄港地のひとつとして、とくに越後各地の幕領の年貢米を運び出す重要な港になっていました。
そのころの新潟町の地形は今とは違っていました。当時、新潟湊の先端にあり、湊と直結した白山神社境内から年貢米は積み出され、大坂・江戸へと運ばれていきました。荷揚げされた品物も、信濃川から直接、新潟町へ入る白山堀(一番堀)から運ばれました。

PICK UP 商売繁盛の神様・海の神様としてあがめられた白山神社

全国からの品物が集まる新潟湊には塩・砂糖・紙・鉄・綿などが入ってきました。鉄は三条に運ばれ製品となり、日常の暮らしに欠かせない塩や砂糖は、会津(現在の福島県)の方まで流通しました。
また、新潟町を所有する長岡藩はもちろん、信濃川や阿賀野川水系に領地を持つ諸藩は、年貢米を川や潟を経て新潟町に運び江戸や大坂へと流通させていました。
物流の重要拠点として、県内の各湊から新潟に物を集める舟や、新潟に運ばれた商品を中小の湊へ運び出す船などで、新潟町には人も物も集まり、大変にぎわっていたことから、白山神社は商売繁盛の神様としてもまつられるとともに、航路で最も危険な能登沖を曲がる際、加賀の霊峰・白山を目印に自分の位置確認をしたことから、海の神様としてもあがめられてきたのです。

新潟町横町蔵屋敷 寛政7(1795)年/安政6(1859)年写

白山神社が鎮座 する白山島は信濃川の中州にありました。堀がめぐらされた湊町新潟の要所を守り、水害や事故から守ってくれる水の神として篤い信仰を集めていました。

海の安全を願い、全国から白山神社に奉納された品々

日本海や北海道の港から、江戸や大阪(大坂)への流通に大変重要な役割を果たしていた「北前船」。
そんな「北前船」のなかでも大型の「千石船」で、大阪と北海道を一往復すると千両(現在の6千万円から1億円)の利益を得られたそうです。自分の才覚と努力で一攫千金もかなう「北前船」は庶民の夢物語でもありました。その分リスクも高く、難破や沈没の記録も数多く残されています。
船主は航海の無事と商売繁盛を祈願して、神社に絵馬などを奉納しました。白山神社にも、その当時に奉納された貴重な文化財が残されています。

新潟県有形民俗文化財指定 大船絵馬 御城米積込風景

寛永5年(1852)に、水原の豪商で廻船差配人だった市島次郎吉正光から、年貢米輸送の安全と繁栄を祈願して白山神社に奉納されたのが「大船絵馬 御城米積込風景」です。
この絵馬には、新潟湊での廻米(当時、諸藩から集められ江戸や大坂へ輸送された米のこと)積み込みの様子だけでなく、江戸や大坂で荷を下ろすまでの、廻米の海上輸送の始まりと終わりを描いた絵馬です。廻米をさばく任を請け負った市島が、廻米輸送の成功を祈願し、その無事を感謝して奉納されました。当時の新潟湊と日本海海運の歴史を知ることができます。

嘉永5年(1852)奉納、昭和44年(1969)新潟県有形民俗文化財指定

書いた人:新潟の画家 井上文昌(いのうえぶんしょう)
願主:水原の豪商 市島次郎𠮷正光(いちしまじろきちまさみつ)

新潟開港150周年を迎えた2019年、新潟市を含む地域が北前船寄港地・船主集落として、日本遺産に認定されました。大船絵馬はその頃の歴史を色濃く残す文化財として大変貴重なものとなります。

開港から150周年 往時の息吹が残る白山神社

尾道から来た石の鳥居と備前焼の狛犬

新潟から出発した「北前船」は、年貢米のお米をたくさん積んでいたので積み荷に重量がありました。そのお米を各地で降ろすと、衣料などお米と比べて軽いものを積んで帰路に就きました。行きと帰りで積み荷の重量差のバランスをとるために錘(おもり)を兼ねて、帰り道の瀬戸内から重たい狛犬や鳥居が積み込まれました。
これらは、海上安全を願い、海の守り神である白山神社に寄進されました。鳥居の前には備前焼(岡山県)の狛犬があり、出雲型の狛犬も奉納されています。これらは、現在も白山神社の境内に残っており、当時の文化を感じさせてくれます。

現在の二の鳥居

開港当時の二の鳥居

白山神社二の鳥居には、「奉 為海上安全」「尾道石工山城屋惣八作」「献 安政3年(1865)丙辰六月日 宿近江屋利右衛門客船中」の文字が刻まれています。赤褐色の狛犬は岡山県の備前焼で作られています。現存する日本で一番大きい備前焼の狛犬とも言われ、現在では製作は不可能とも言われております。

白山神社、白山堀と古町芸妓

江戸時代には白山神社境内に商人の蔵があり、白山堀(後の一番堀)から米や商品を運んでいました。神社の祭礼はとても賑わい、芸妓たちもおまいりをしながら衣裳を競い合ったといいます。明治初期の絵画には、春祭に参拝する古町芸妓の大変賑わった様子と共に、新潟湊も描かれております。

白山神社前にあった白山橋と芸妓(新潟名所絵はがき)

白山堀(一番堀)の荷船 明治初期。手前は荷船、右に島蔵が見えます。

越后新潟湊真景十六興 全盛銕醤祝横街米市 明治初年

一人前の芸者になると白山神社に参拝し、鉄漿(おはぐろ)をつけ餅を配ってお祝いをしました。白山堀(一番堀)をはさんで立ち並ぶ米を納める蔵や、米を積んだ船も描かれています。

PICK UP 白山神社の節分・春まつりと古町芸妓

古町芸妓と白山神社との深いつながりは、時代を超えて今も続いています。白山神社の節分では、厄年にあたる一年目、二年目の芸妓さんが豆をまくほか、春のはくさんまつりにおまいりに訪れるなど、恒例行事として多くの方々に親しまれています。

江戸時代にも春まつりに芸妓の参拝が行われており、そのあでやかな姿絵が額に入れられ白山神社に奉納されており、当時の歴史を伝えています。

令和3年の10月には、江戸時代以来300年ぶりに古町芸妓参拝が実現。祇園・赤坂・新橋と並び称された古町芸妓をひと目見ようと、多くの観客が集まりました。

節分祭

春まつり

新潟総鎮守として、みなさまの幸せを願う白山神社

1,000年以上も昔から、新潟の人々の暮らしに深く結びつき、厚い信仰を集め、歴史とともに歩んできた白山神社。
これからも新潟の新潟の総(すべ)てを鎮(しず)め守(まも)る神社として、今までも、これからも、みなさまの幸せを願う場所であり続けます。代々、新潟の人々が白山さまを心の拠り所にしてきたように、四季ごとに訪れ、おまいりやおはらいをして、心身に溜まった悪い気や災いを清め、心に安息をもたらしましょう。

地域学習・総合学習で、白山神社や新潟の歴史に触れてみませんか?

白山神社では小学生・中学生のみなさんの地域学習・総合学習を承っております。
神社や神様に関することはもちろん、白山神社やその周辺の歴史などについても神職がお話しさせて戴いております。

白山神社の建立は平安時代とされ、古くから時代を超えて湊町・新潟の発展を見守り続けて参りました。
子どもたちに新潟の歴史や文化に触れることができる機会を作ってみませんか?
なお、祭典・繁忙により対応できない時間帯も日によってはありますので、事前にご連絡(ご予約)戴けますとありがたいです。

【地域学習・総合学習についてのお問い合わせ先】
白山神社
TEL:025-228-2963 
FAX:025-228-2959
E-mail:
hakusanjinja@niigatahakusanjinja.or.jp

地域の大人の方はもちろん、小学生、中学生のみなさんにも、白山神社を通じて新潟の歴史や文化を知る機会を作りたいと考えております。まずはお気軽にお問い合わせください。