兼務社のご案内

関屋神明宮せきやしんめいぐう

  • 所在地新潟市中央区関屋本村1丁目 [Googleマップ]
  • 例祭日8月26日
  • 御祭神天照皇大神、豊受大神
  • 御神徳衣・食・住の守護神

天正・永禄年間に信濃川河口地区の開発が西南より東北に及んだようであり、付近の関屋、新潟(古町一番町)、山ノ下の3地区が共に神明宮を奉仕して鎮守さまとして崇めたのは偶然ではなかったものでしょう。郷土のおぼろげなる古老の談に三社分霊説を唱えているのも根拠のないものとして排除することはできないでしょう。

新潟神明宮の創始が天正年間(1570年頃)、山ノ下神明宮の創始が慶長年間(1600年頃)に遡ることができるのに比べ関屋神明宮の起源のみそれより後代であることは到底信じられないことであります。

関屋地区は古記によると、宝永7年(1710年)村の移動があり、現在地から数町(約700メートル)東北の位置にあったそうです。旧位置を古新田と称しており、その前後に河欠けの為、河川敷中に埋没したというが、この旧位置での成り立ちもいつの年代であるか知ることができない。しかし、神明宮がその繁栄と共に先にあったことは推論することができる。新潟市史が関屋神明宮について創建時代不明と記しているが、これは古新田からの移転を傍らから証明するものであります。

新しい場所に奉安された後の本殿は益々村民崇敬の的となり、長岡藩領として村の初代大庄屋である齋藤金衛氏が奉納した「神明宮」という三文字の金文字大額は今日も保存されてあります。齋藤金衛は貞観年中(約200年前)に死亡した人でその壮年時代に奉納したとすれば二百数十年前のものになります。

このような由緒ある神社であるが故に明治22年4月の西蒲原郡関屋古新田と新潟市との合併に際しても、関屋神明宮は他との合併移動はさせず、住民は従来通り関屋神明宮を氏神とすることを条件としました。

昭和5年1月、関屋土地区画整理組合が工事に着手するにあたり、組合長齋藤巳三郎氏は関屋神明宮で地鎮祭を執行し地固めの鍬を打ち下ろしたことがあり、また、戊辰戦争後に免れた米沢藩の新潟総督、色部長門守の記念碑も現在の関屋下河原町二丁目に建立され、遥かに信濃川を臨み、遠く弥彦、角田の霊峰に対し、歴史的にも産業的にも地域の全生活と交渉を持ち、生きたる神社として区内二千余戸の崇敬の的として、四時参拝者の絶えることがないのを見ております。

昭和12年8月 初代氏子総代代表 剣持宗太郎 著
昭和53年7月 茂野與吉 訳
平成24年8月 齋藤忠正 話

古町ふるまち 大山祇神社おおやまづみじんじゃ

  • 所在地新潟市中央区古町通3番町 [Googleマップ]
  • 例祭日旧暦4月22日(現在5月24日)
  • 御祭神大山津見神、木花咲耶姫神、大物主大神
  • 御神徳郷土の守り神、安産、子育て、福徳円満

御祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)、木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の三神であり、昔から「山の神様」と呼ばれ尊崇されてまいりました。大山津見神は山の神であり国土、郷土を守る神様。木花咲耶姫神は富士山に祀られる神で桜の花の美しき如く、すべての物を美しく抱擁する神様で、安産や子育ての神様とされております。大物主大神は大国主大神(大黒さま)の和魂・幸魂・奇魂(にぎみたま・さきみたま・くしみたま)の神様で、福徳円満、人を幸福にする神様です。

白龍大権現はくりゅうだいごんげん

  • 所在地新潟市中央区本町通6番町 [Googleマップ]
  • 例祭日8月17日
    毎月17日 午後6時よりおまつり・おはらい
  • 御祭神白龍大権現
  • 御神徳商売繁盛・縁結び・家内安全

昭和28年4月のさる日、当時三島郡大河津村の新信濃川に一体二頭の竜神像が漂着した。
同村五千石小学校三年生古沢忠市君が友達と登校の途中、中学校付近の蒲原用水に藻屑と一緒に異様なものが流れてくるのを見つけ友達と一緒に引き揚げたところ二匹の大蛇が縄のようにからみ合って顔を見合わせている木像である。極めて古いものでどこかの祭神として祀られていたものが雪どけ洪水で信濃川を流れてきたものとして忠市君の野中才では福が来たと大騒ぎであった。
竜神像は忠市君の祖父市右衛門さん方に安置されたが、新聞やラジオで報道されたので遠近各方面からおまいりが絶えず古沢家でも混雑していた。

これよりさき新潟市の本町通では商店街繁栄策としてその中央部の空地に神社建立の議が纏っていた。商店街協同組合(理事長小石栄作)では前段の報道を見るやこの縁起のよい龍神こそ本町通にふさわしい祭神であると執心、関係者相諮り古沢さんの意を通じて本町通に遷座したい旨懇願請した結果ついに古沢さんの厚意ある諒承を得て、いよいよ本町通に龍神は輿入れすることに決った。

偶々これに前後して三条市八幡小路女祈祷者大竹トキさん(当時70歳)が新潟警察署に龍神像の落主の旨申し出があった。
それは同年二月下旬信州軽井沢から像を持ち帰る途中小千谷市に立ち寄り雪道を歩いて信濃川の橋の上に来たとき、ソリをよけようとして転び背にしていた像を故事縁起が書かれた巻物と一緒に川に落としてしまったのだといい、この像は軽井沢で有名な元外相松岡洋右氏から拝領した神像で霊験あらたかな神像であるとのことだった。

そこで商店街側では時の警察署長を介して大竹さんを堂守りにお頼みすることにして本人の満足を得ていよいよ4月17日に大河津から本町通の小石理事長宅へ仮遷座の運びとなった。

こうして祭神と神社建設の方向が本決まりとなった喜びの裡に商店街の協力と付近関係者の支援で着々と実行に移された。昭和28年8月17日をトとして白山神社小林宮司の奉仕によって多数来賓の下に厳粛なる遷座式が営まれその社名も白龍権現と尊称本町通及び近隣の鎮守として安置して毎月17日をお祭日として今日に至っている。

本祭神は前にも書かれた通り丈30センチ、幅12センチ程の木像(材質作者不明)蛇体像で二匹の大蛇が縄のようにからみあって稲荷さまのような頭(顔)が向かい合わせている歓喜像である。
昔から蛇体は金の神として商売繁盛の象徴でありからみあった歓喜の様は男女縁結びの象徴である。
白龍権現建立以来、商売繁盛、縁結びにあやかる参拝者が引きも切れない故もここにあるのである。

現在でも本町に買い物に訪れる人々が多く参拝に訪れ、毎月17日にはおはらいが行われ、8月17日には夏まつり、2月3日に節分祭が盛大に行われ、地元にみなさんに愛されている神社です。