白山さま なるほど豆知識
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白山公園開園150年①

日本初の公園のひとつ「白山公園」は
明治はじめ、150年前に
白山神社の境内につくられました

白山神社神苑図面/明治40年

明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)、開港五港の一つとして、新潟港は外国に向けて開かれました。
江戸時代には北前船の寄港地として栄え、にぎわってきた新潟町に、東京からイギリス領事をはじめとする外国人が到着し、明治2年(1870)には石庫や荷揚げ場などを備えた洋風建築の運上所(新潟税関)が建てられ、国際港にふさわしい都市景観となっていきます。
明治五年(1872)、そんな新潟町に、新潟県令(県知事)として外務省の官僚から起用されたのが、弱冠三十四歳の楠本正隆でした。楠本県令はさまざまな行政改革を断行しました。文明開化の波が押し寄せる新潟町を、開港場として恥ずかしくない国際都市にするために、堀をきれいにし、道を造り直し、石油の街灯を立て、区画整理をして新しい街を整備していきました。
こうした改革は人々の反発を招くほど、頑固で妥協しない面もありましたが、新潟町の近代化は楠本県令によって、はじめられたのでした。

明治の日本近代化を象徴する
西洋のようなパブリックパークを

「白山公園」造成も県令による開化政策のひとつです。白山神社境内や、現在の新潟地方裁判所あたりには、江戸時代から新潟町の町人たちの蔵が立ち並び、蔵に年貢米を運び入れる舟が信濃川や白山堀を行き交っていました。そこは松原が広がり、信濃川越しに弥彦山や角田山、遠くに越後山脈をのぞむ景勝地。西洋にあるような公園が新潟町の近代化に必要と考えた県令は、さっそく神社境内の蔵を撤去させ、開港場にふさわしい遊歩道の造成に着手しました。明治政府(太政官)が太政官布達を出して、全国の府県に公園としてふさわしい景勝地の認可事業を行ったのは明治六年(1873)。新潟県は前年から造成中のこの遊歩道を届け出ました。そうしたことから、布告に基づき遊歩道は、東京の上野公園や芝公園とともに、日本最初の公園となったのです。

白山公園からの弥彦・角田望遠/神社のすぐ脇を信濃川が流れ、遠くに弥彦山や角田山を見ることのできる、風光明媚な場所として人気でした。

寺社の境内地や大名家の庭など、人々が憩える公園的な場所は江戸時代にもありました。しかし、それは西洋のパブリックパークとは異なります。身分や貧富の格差なく誰もが利用できる、文化的な公共空間としての公園は、明治の日本では新しい時代の象徴でもありました。遊歩道は当初、「新潟遊園」の名称でしたが、白山神社のところの公園、と市民に通称で呼ばれているうちに「白山公園」が正式な名前となったと伝えられます。今も園内に咲くフジやハス、ウメ、ツツジ、豊かに茂る草木にも、新潟町をどこに出しても恥ずかしくない立派で美しい街にするべく植栽をさせた、楠本県令の仕事ぶりが息づいているかのようです。
「白山公園」と縁の深い新潟総鎮守・白山神社は、これからも新潟のまちの発展とみなさまの幸せを願う場所であり続けます。

明治6年前後の造園中の白山公園/白山神社の元境内地に洋風の花壇を作っている。(左奥:白山神社本殿、右手前:新聞縦覧所)

写真・資料提供:新潟市歴史博物館所蔵