白山さま なるほど豆知識
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新潟の総鎮守②

江戸時代の新潟湊は、北前船の寄港地として、たいそう賑わいました。新潟総鎮守・白山神社は、湊町の繁栄と海の安全を見守り続けています。

大船絵馬 御城米積込風景/寛永5年(1852)に水原の豪商・市島次郎吉正光から、年貢米輸送の安全と繁栄を祈願して奉納されました。白山神社拝殿にあり写真撮影も可。県有形民俗文化財指定

十七世紀後半、幕府の年貢米の輸送をするために、日本海の航路・寄港地が整備され、商人の船による交易が盛んになります。新潟湊にも幕府や近隣の藩の年貢米を積んだ回米船、商人の物資を積んだ回船が往来しました。大阪(大坂)と北海道(蝦夷地)を日本海まわりで往復しながら、各寄港地で積荷を売り、また、新たに品物を仕入れたりしながら商売をしました。
北国からの物資を運んでくることから、こうした回船は、大阪など関西では「北前船」と呼ばれていました。そして、新潟湊も「北前船」の寄港地のひとつとして、とくに越後各地の幕領の年貢米を運び出す重要な湊になっていました。

新潟町横丁蔵屋敷/寛政7年(1795)安政6年(1859)写 白山神社が鎮座する白山島は信濃川の中州にありました。堀がめぐらされた湊町新潟の要所を守り、水害や事故から守ってくれる水の神として厚い信仰を集めていました。

そのころの新潟町の地形は今とは違っていました。当時、白山神社は新潟湊の先端に位置し、湊と直結した白山神社境内から年貢米は積み出され、大坂・江戸へと運ばれていきました。荷揚げされた品物も、信濃川から直接、新潟町へ入る白山堀(一番堀)から運ばれました。
全国からの品物が集まり、商人で賑わう場所に鎮座する事から、新潟の全ての繁栄の源、商売繁昌の神として白山さまはあがめられました。また、航路でもっとも危険な能登沖を曲がる際、加賀の霊峰・白山を目印に自分の船の位置確認をしたことから、海の神さまとしてもあがめられてきました。

町の歴史と発展、暮らしの風景に寄り添いながら

白山神社二の鳥居/「奉 為海上安全」「尾道石工山城屋惣八作」「献 安政三年(1865)丙辰六月日 宿近江屋利右衛門客船中」の文字が刻まれています。

新潟湊に出入りする「北前船」。なかでも大型の「千石船」の場合は、大阪と北海道を一往復すると千両(現在の六千万円から一億円)の利益を得られました。自分の才覚と努力で一獲千金もかなう「北前船」は庶民の夢物語でもありました。その分リスクも高く、難波や沈没の記録も数多く残されています。船主は航海の無事と商売繁昌を祈願して、神社に絵馬などを奉納しました。参道にある石の二の鳥居もその一つ。日本海航路を上り下りして商う「北前船」は、米など重い荷を積んで新潟湊を出発、関西でおろすと、代わりに軽い衣料品などを積んで戻ります。広島から鳥居、瀬戸内から狛犬が、錘を兼ねてバランスを取るために船底に積まれて運ばれ、海上安全を願い寄進されました。鳥居には広島尾道の石工の名前が刻まれています。
「北前船」が往来する新潟湊。米蔵が並び商人が行き交う境内。

白山神社に米蔵があったころの絵図/享保期(1710年代ころ)には長さ18間(約32.72メートル)、横4間半(約8.18メートル)の蔵が16棟あり、年貢米などが納められていました。

白山神社の春祭りともなれば、古町芸妓たちは華やかな衣装を競いながら、揃って参拝をしました。この日だけは知り合いに会っても決して口をきくことがなく、遅れたりしゃべったりすると、その一年はお客が減り商売に響くとされていたため、口を一文字に結んで白山神社へ進んで行ったとか。日本三大花街のひとつに数えられ、京都祇園や東京新橋と並び称された新潟古町の芸妓の華やかな姿を一目見ようとする人々で、境内はたいそう賑わったと言います。

参拝する古町芸妓(明治初年)/白山神社の春祭ともなれば、古町芸妓たちは華やかな衣装を競いながら、揃って参拝参詣をしました。

厚い信仰を集め、湊町を見守り続ける、新潟総鎮守・白山神社。これからも、みなさまの幸せを願う場所であり続けます。

写真・資料提供:新潟市歴史博物館蔵