白山さま なるほど豆知識
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新潟の総鎮守①

新潟町の全ての繁栄の始まり、湊町新潟の拠点に
白山神社は、400年以上変わらず鎮座し続けています。

江戸時代まで白山神社は、信濃川の中州・白山島にありました。辺りは信濃川や阿賀野川が運ぶ土砂による地形の変化が大きく、信濃川の中洲との間が土砂により埋まる迄、白山神社は、信濃川から日本海へ出る新潟湊の先端に位置していました。
さかのぼること天正13年(1585)、白山島には、上杉景勝と新発田重家が戦った白山城(新潟城)があり、白山大神を城内にまつっていた記録が文献に残されています。戦国時代から江戸時代にかけての新潟では、白山島と白山城の中でしか商売が許されておらず、「白山ヶ島は田畑はなし、商人多し」と書かれています。貨幣の価値があった年貢米は白山神社境内の蔵に納められていました。
江戸時代の初めになると、新潟湊は、新潟町を所有する長岡藩にとって重要な物流拠点となり、年貢米の積み出しはもとより、藩内で生産された名産品や海産物の運び出しには欠かせませんでした。ところが、土砂が堆積して湊が浅くなり、回船が入れなくなったため、明暦元年(1655)、新潟町は白山島・寄居島へ移転をします。
新しい町並みは上(南)が白山神社境内地、下(北)が州崎町(本町12番地)まで。東西は上大川前から西堀通まで。白山神社は新潟町のまち建ての起点ともなり、それは現在の住所(新潟市中央区一番堀通1-1)にも見てとれます。

古新潟之絵図(移転前) 明暦元年(一六五五)頃/現在の古町地区につながる新潟町は、明暦年間に古新潟から白山島・寄居島へ移転、町割されたと考えられています。

新潟町絵図(移転後) 文政六年(一八二三)頃/信濃川の流れが変わり、白山神社の場所を起点として、土砂が堆積して町が川岸から遠のき、湊として機能しなくなったため、場所を移して堀と通りで区画された新潟町が再構築されました。

佐渡金山と江戸幕府を中継した新潟湊で
まちと人々を見守り続けています。

信濃川に沿って造られた新潟町の町割。まちの中をめぐる水路には舟が行き交い、七つに区分けされたまちの各組には役人が配され、町会所では戸籍管理や他町村との交渉などの行政事務が執られていました。柾屋小路(現柾谷小路)の西端には長岡藩の町奉行所。まちの南端には白山神社。これらが新潟町の核となっていたのでした。
町民は職業ごとに住む場所が決められており、たとえば舟で材木を輸送する材木商人は大川前通の川沿いといった具合に、町割は計画的なものでした。
戦国時代には上杉謙信が。江戸時代には堀直寄・牧野忠成が。新潟湊の支配とともに物資の運輸で財力をたくわえながら、新潟町発展の原動力ともなっていきました。また、幕府直轄地の天領・佐渡金山からの金も、新潟湊を経由して江戸へ運ばれました。江戸幕府300年を支えた財政に、新潟湊は重要な役割を果たしていたのです。
そんな重要港湾としてにぎわう新潟町で、白山神社は、湊の守護神などとしてあがめられていました。厚い信仰を集め、湊町を見守り続ける、新潟総鎮守・白山神社。今までも、これからも、みなさまの幸せを願う場所であり続けます。

写真・資料提供:新潟市歴史博物館蔵