白山さま なるほど豆知識
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世界遺産登録をめざす佐渡金山と
新潟の総鎮守・白山神社

世界最大の産出量を誇る良質の金で江戸幕府300年の財政を支え、世界貿易にも貢献をした黄金の島・佐渡島。
江戸とつながる流通ルートの拠点には、白山神社がありました。

「佐渡島(さど)の金山」は、佐渡金銀山を代表する「西三川砂金山」「相川鶴子金銀山」の2つの鉱山で構成される世界文化遺産候補です。

佐渡島の金の歴史

佐渡島の金が、はじめて文献に登場したのは、平安時代後期の説話集『今昔物語』。能登国から訪れた人々が、佐渡西三川から砂金を持ち帰った話が記されています。黄金の島・佐渡島の存在は、このころすでに、京の都まで知られていたことになります。
戦国大名たちが金による富国強兵を競った上杉景勝の時代から、関ヶ原の戦いに勝利をした徳川家康へと支配が移ると、佐渡島は、幕府が直接管理をする天領に。ヨーロッパの影響を受けにくい鎖国のもと、日本の伝統的手工業による生産技術と、高度に専門化された生産体制が整えられ、世界でも類を見ない大規模な金の生産システムが確立されました。
また一方では、日本各地から集まった労働者たちから、信仰や芸能、娯楽など、豊かで多様な佐渡独自の文化がはぐくまれていきます。
17世紀には世界最大級の金の産出量を誇り、江戸幕府の財政を支えた佐渡は、オランダを通じて世界貿易にも貢献をしました。
現在、佐渡には金の生産技術に関わる採掘・選鉱・製錬・精錬の遺跡、生産体制に関わる奉行所跡や鉱山集落跡などが残されており、こうした遺跡が良好な状態で残るのは世界的に見ても佐渡だけ、とされています。

佐渡―新潟湊―江戸
金の運搬ルートの拠点には白山神社があった

佐渡島から江戸へ至る、金の運搬ルートは三つありました。佐渡小木湊から出雲崎湊を経由する「北国街道ルート」。寺泊湊を経由する「三国街道ルート」。そして、白山神社とつながる新潟湊を経由する「会津街道ルート」。幕府や近隣の年貢米、商人の物資を積んだ北前船の寄港地になり、繁栄をしていた江戸時代の新潟湊は、江戸へ運ばれる金にとってもまた、重要な物流拠点だったのです。

こうした地の利は当然、時の権力者達にとっても魅力的なものでした。湊の利権と支配権を手に入れ、経済的にも軍事的にも優位に立つためです。のちに上杉景勝と直江兼続の〝天地人〝につながる、天正9年(1581)「新発田重家の乱」で、白山権現をまつる白山島に重家が築城した「白山城(新潟城)」は、天正13年(1585)に景勝の家臣によって落城させられるまで、現在の白山神社および白山公園の場所にあったと伝わります。地形の変化が大きく、遺構こそ見つかっていませんが、古絵図でその存在を確認することができます。
いつの時代にも、湊の守護神などとして厚い信仰を集め、湊町を見守り続ける新潟総鎮守・白山神社。上杉景勝が戦勝の帰途に、鏡と啓を寄進した記録も残されています。

岡山大学「池田家文庫」に掲載されている「白山城(新潟城)」の絵図
写真・資料提供:岡山大学附属図書館所蔵