天地人・上杉景勝、直江兼続と白山島・白山城・新潟城

歴史

天正6年(1578年)上杉謙信が急逝すると、景勝と景虎の二人の養子が上杉家の家督を巡って争った御館の乱が起こりました。新発田長敦、重家は上杉景勝方につき、景勝が正式な上杉氏の名跡を継ぐことになりました。 しかしながら、活躍した重家らには大した恩賞が与えられず、それに対する不満が募っていきました。この間の天正8年(1580)に兄・長敦が病死したため、重家は実家である新発田氏の家督を相続して新発田城主となりました。

不満を持った重家は、米沢の伊達や会津の蘆名の後押しを受けて、上杉に対して反旗を翻します。北陸にまで進出していた織田信長と結んで天正9年(1581)6月より景勝と交戦に及びました(新発田重家の乱)。

新発田軍は南下して新潟方面に進出し、沼垂津を押さえ、続いて新潟津、白山島に白山城(新潟城)を信濃川の中州に築き、湊の利権と支配権を手に入れます。重家は新潟の湊に入る船が景勝に納める税金を奪うことに成功しました。新潟は日本海航路の重要拠点であり、商人で賑わっていた白山島、新潟湊を手にいれ、経済的にも軍事的にも優位に立つことになりました。また、当時の越後平野は、湿地帯で、現在のような穀倉地帯とは程遠い姿をしていたとされ、地の利を生かし、重家は景勝軍を何度も撃退しています。

管窺武鑑、北國太平記によると、天正13年(1585)白山島には上杉景勝と新発田重家が戦った白山城(新潟城)があり、城内に白山大神をおまつりし、商人であふれ賑わっていたという記述が見られ、当時より商売繁昌の神、新潟の守り神、鎮守さまとして崇められていたのがわかります。

白山城の跡地
白山城の跡地

上杉景勝は、天正10年2月に重家を攻撃したものの撃退され、その一方、織田軍が越中魚津城を包囲するなど西での危機が高まったので、新発田氏攻めに全力を注げなくなりました。6月2日に本能寺の変が起きて織田軍の圧力はなくなりましたが、上杉氏は、今度は北信濃の領有を巡って小田原北条氏と対立し、本格的な新発田氏攻めは難しくありました。天正12年には直江兼続も出陣して新発田軍と戦うも戦果はなく、一進一退の戦いが続きました。

局面が転換したのは天正13年末に沼垂津、新潟津を上杉軍が奪取したことで、さらに翌天正14年に景勝と秀吉が手を結び、新発田氏の孤立化が進みました。

上杉景勝は、天正15年(1587)夏、秀吉の支援を受け、新発田城攻略に向けて大軍を発し、新発田方の城を一つ一つ攻略しました。直江兼続らは新発田氏一門衆の五十公野信宗らが篭る五十公野城を10月13日に攻略して、新発田城の包囲を完成させた。最後に残った新発田城も10月24日、覚悟を決めた新発田重家らの突撃、自刃をもって陥落し、7年に及んだ新発田重家の乱は終わりました。

縁の品・建築物

後に上杉景勝が戦勝の帰途に、鏡と啓を白山神社に寄進した記録が残っております。
白山神社拝殿には北前舟の往来を描いた大船絵馬が飾られております。これは御城米の積み込み風景と新潟湊の風景が縦153センチ、横324センチという大画面に描かれており、当時の新潟湊と日本海海運の歴史を知る上で貴重な資料とされ県文化財に指定されております。

また隣接する燕喜館(白山公園内)は、北前舟で栄えた新潟湊の象徴のひとつ、商家・斎藤家の邸宅の一部を移築、再建したものです。今では手に入りにくい長さ十間の一本ものの桁や長押、円弧型の地袋の細工やシャンデリア、清水焼の燈籠などは往時を偲ばせます。館内からは白山城の跡地であろう白山公園の蓮池を見ることができ、有料で抹茶を楽しめます。春には梅、桜、夏には蓮、秋には紅葉、冬には冬景色が楽しめます。